激動の2011年。3.11震災とタイ洪水による工場被災を経験して

abstract
目次

東日本大震災による工場被災

振り返ってみると、2011年は波乱の年だった。

まず、3.11の震災があった時に私は自動車のボディを製造している福島の工場にいた。何しろ震度6という経験したことのない揺れだったので、高さ15mある巨大な自動ラックが傾いたり、何トンもある金型が落ちたり、建屋の天井が落ちたり、敷地で地割れがあったり、ブロック塀が倒れたりした。また当時、外国人研修生が生産現場にいたので、地震慣れしていない彼らを安全な場所に避難させたりもした。

ただごとではない状況なのは明らかだったが、帰宅命令が出なかったばかりに多くの従業員が工場の駐車場に定時まで留まる必要があった。外国人研修生は、操業できない状態なのに敷地に留まることに理不尽さを感じていたに違いない。私自身も定時後にやっと工場を出たが、その頃にはコンビニもスーパーも食料はすべて売切れていた。アパートに戻ったら、部屋はぐちゃぐちゃで、水も出ず、電気もつかず、3月なのに暖も取れない状態だった。

この段になって、さすがに「これはマズイ」という実感が湧いてきた。電気がないのでTVを見ることもできなかったが、スマホは使えたので、福島の原発が危ないという情報だけは確認できた。先行きが見えないなか、単身者は身動きが取れなくなることが予想できたので、即避難することを決意。幸い、クルマには十分な燃料があったので徹夜で東京の実家に戻ることにした。

とにかく震災後は関東の拠点に移動して、国内で稼働していた他の工場のサポートに回った。購買部門だったので、被災していない工場の在庫や物流のマネジメントを行うなどの業務をこなし、なんとか2-3ヶ月で一段落つけることができた。

タイ洪水による工場被災

一難去ってまた一難。やっと国内が落ち着いたと思ったら、2011年夏になってタイで大洪水が発生した。日本企業の工場も多く水没したことが報じられたので、覚えておられる方も多いのではないだろうか。実は私が勤めていた企業のタイ工場が、まさにこの洪水でひどく水没し甚大な被害が出たのだった。

工場の建屋があった場所は水深2-3mにも達し、設備はすべて水の底。その工業団地の入り口に船着き場が出来るくらいの激しい洪水だったという。私はあらかた水が引いたころにタイ工場に呼ばれ、実際に電柱や工場の外壁に洪水の跡がついているのを見て驚いた。そして、そこから半年間タイに出張滞在することになった(タイ語は勉強していたので問題なかった)。

自動車業界のサプライチェーンは国内だと大手メーカー毎に系列がガッチリ決まっているが、海外だとその限りではない。私が赴いたタイ工場も、当時から複数の自動車メーカーに部品供給していた。しかし「洪水で設備がダメになり操業できなくなったので納品できません」というわけにはいかない。
(想像してみてほしい。一日何万人もが働いている自動車メーカーが、一部の部品の供給が止まるせいで被る損失は甚大だ。仮に自動車メーカーが生産出来なくなると、その下にいる何百という部品メーカーにまで影響が及ぶのだ。)

ありがたいことに、私が到着した時には、タイの従業員が船を使って水の底に沈んだ多くの金型をすでに引き上げてくれていた。私は調達部門としてその金型を預かり、タイの被災していない地域のサプライヤー工場をあちこち訪問する日々が始まった。うちの金型を持ち込みでプレス代行をしてくれる工場を探して回ったのだ。
ただ、当然ながらこれは臨時のスポット依頼なので向こうもそれほど乗り気ではない(継続性のない取引だと分かっているから)。なのでこちらもひたすら頭を下げ、通常のコストよりも幾分高い条件を提示してお願いする、ということを繰り返した。

このとき、あらゆる面でタイ人の優しさにすごく助けられたのが心に残っている。それがなかったら、あの危機を乗り超えることが出来なかったのは間違いない。2011年はそんな激動の年だった。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次